昭和45年11月17日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせる事はあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈る所は天地金乃神と一心なり。一心の真を捧げての願いになろうと。是は今月の合楽の信心のいわば焦点で御座いました。一心の真を捧げての願いになろう。一心を立てればわが心に神が御座るからおかげになるのじゃと。一心を立てればわが心に神が御座るからおかげになるのだ。成程一心を立てると言う事は素晴らしい事であります。
それはもう何様かに様と言う事は要らん。ね、それこそ山の中の杉木立なら杉木立を目当てにしてからでもね、石の祠(ほこら)でもいい一心に拝む一心に頼む。一心不乱に拝む。それはわが心に神が御座るからおかげになるです。是は私の方の遠い親戚になりますけれども、そこの中心である主人になる人が難病を患いましてね、医者から見放されました。それでその嫁さんになる人が山本なのですからね、
お観音様のもういっちょ奥の方に何か石の祠?えらい昔から祈願を聞きなさるという何様かおりなさる所へもう丑の時参りを始めた。それでもう、それこそ一心不乱にまあお参りされて、そしてですねえ、その医者が見放したという病人が助かった。もう奇跡的に助かった。これなんかはいわば一心を立てた、一心を立てたらわが心に神が御座った証拠におかげになった。ね、
不思議にですね、どうでもこうでもと言った様な願いとか、とにかく一心を貫いて行きよりますとですね、自分の心の中に、言うならばおかげになる、おかげになるといった様な思いが強うなってくるんですね。その思いがねその思いが所謂奇跡を呼ぶんです。そりゃ拝んだ相手が素晴らしい御利益を下さる神様であったから、おかげになるのではなくて、わが心に神が御座るからおかげになるのじゃと。一心を立てるとね。
ですから是はもう何処でも同じでしょうけれども、日本でもそういう奇跡を呼んだ例は沢山ありますよね。一心にそれこそ氏神様なら氏神様にお参りをさせて頂いてでも、おかげを頂いて居る人があります。氏神様と言やあ別にそういうその霊験あらたかとかなんじゃないけれど、こちらそのいう筈はないですよねえ、言うならば八幡様とか天満宮様とかいうのですから、その特にそういう働きをもった、只問題はこちらが一心にお参りをする、一心に拝む一心に修行をするとこからです。
わが心に神が御座るからおかげになるのです。ところがお道の信心はどう言う事になって来るのかというとそうではないですね。所謂生きた天地が相手であると言う事。生きた天地「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事無し。此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」と。此方が祈る所は天地金乃神と一心である「是まで神がものを言うて聞かせることはあるまい。何処へ参っても片便の願い捨てである。」
ところがお道の信心をさせて頂き、金光様の信心をさせて頂くと神様がものを言うて聞かせて下さる様に神様の心を私共に理解して下さる。天地のことわけ天地の道理、天地の御恩徳。人間は天地の御恩徳御恩恵に依らなければ生きて行かれないものだと。生きようとして生きて行かれないのだと。天地の道理、ね、道理をいわゆるこんこんと説き明かし説き聞かせて下さる。いわゆる片便の願い捨てではない。
只一心不乱に拝むと云うだけではない。はあそうであったかと今までは知らない事とは言いながら何十年の間、天地に対する所の神恩報謝の生活も出来ず、所謂お粗末御無礼の生活であったと言った様な事が段々分かって来る。天地の道理を分からせて頂くから、成程今までの生き方が間違いであった事が解るから道理に合うた生き方をさせて頂く様になる。天地の道理に合うた生き方、所謂生活全体が変わって来る。ね、
昨日の御理解の中にあった様に物の見方考え方が変わって来る。金光教はそういう信心であだ。ね、例えばどうでしょうか、なら一心を立てて成程そこに奇跡を呼んだと。ね、ほんとにその病気を医者に見放された様な病人が助かる程しのことが出来てもそれはそれまでのこと。そりゃ医者が見放した病人が助かると言うのですから、こんな嬉しい事はない、有難い事はないですよね。
けれどもその石の祠の、石の何何様なんなん様を拝んで、この神様の事はもう一生命の恩人だから忘れられないと言う事だけであって、他に何もプラスするものはないでしょう。ね、所謂片便の願い捨てである。願い捨てて行く。所が金光様の御信心は是まではものを言うてくれる神や仏やらなかったが、ここへ参って来ると、ね、神様がもの言うて下さるのも同然な様にです、所謂生神金光大神がそれを説かれた。天地のいわば道理を説かれた。天地の御恩徳を説かれた。所謂真の道を説かれた。
そこで私共は真の道に入らせて頂いたら、ね、真の人にならせて頂かねばならん事を一生懸命精進する。精進するところから心の安心又は和賀心、その喜びの心が頂かれる。ね、そしてどういう事になって参りますかと云うと、成程天地が生きて御座るなあという実感の中に日日生活できる様になる、ね。天地の道理を分かり道理に合うた生活。天地の御恩徳を分からせて頂いてその天地の御恩徳に対して神恩報謝の生活。ね、
所謂道理をわきまえた生き方。そこには問題があっても問題ではないという様なおかげ、難儀があっても難儀とは感じない感じ方。難儀と感じない。そういう素晴らしいいわゆる生活がそこに出来て来る様になる。ですからほんとに金光様の御信心をさして頂くならその様なおかげを頂いていかなければ駄目だ。昨日の御理解なんかはそこのところが力説して御座いましたよね。
ところが沢山の金光様の御信心を頂いて居るけれども、果してそういう様なほんとに天地の道理に合うた生き方をさして貰おう、天地の御恩徳に対して神恩報謝の生活をさして貰おうとそこのところにいわば焦点を置いて信心の稽古をして居る人がどの位あるだろうか。成程天地が生きて御座るなあと、一分一厘間違いの無い事だなあと、天地ほど実意丁寧な働きをして見せて下さる方はないなと、ね。
その実意丁寧一分一厘間違いの無い働きをして下さるのを目の当たりに見たり又は心に感じたりしての生活。ね、そこにです、いわゆるいよいよ神恩報謝の生活が高められて行くばかりだ。有難い勿体ないという生活が出来るばかり。それがどうでしょう、只一心不乱に拝むことだけ。だったら、なら山の木立でもよかりゃ石のほこらでも良い。何様と云うことは要らん。そこに一生懸命の例えば修行のひとつでもさせて頂いてです、それこそ丑の刻参りでもさして貰うという様な熱意を以ってです。
すると、不思議に奇跡を呼ぶ程しのおかげを受けられるけれども、それはそれほどそれまでの事なのである。それは片便の願い捨てだからなのです。ね、そこで、んなら金光様の御信心をさしていただいて居るから、もの言うて下さる話を聞かせて下さる、神の心を分からせて下さろうとする願いの元に神様がみ教えを下さるけれども、それを聞くばかりでそれが行の上に現されないとするならどうでしょう。値打はない訳ですよね。金光様の信心を頂いておるという値打はないです。
生活全体が変わって来る。ものの見方考え方が変わって来る。ね、そこに天地の働きの一分一厘間違いのない働きというものをです、感じ取らせて頂けれる体験がそこにありますから、日日が安定した喜び一杯の生活が出来る訳なんです。お取次を頂いての生活。私はそのお取次を頂いての、だけの生活というはいわゆる金光様の御信心の独壇上という訳でしょうけれども、お取次を頂いて、ね。
ほんとにそれを頂いたものを行の上に現しての生活になって来なければ、只ならお取次をお願いしたからだけではそういういわゆる物の見方が変わって来る程しのね、おかげは頂かれないとこう思います。一心の真を捧げての願いになろう。今日は私この捧げるということを頂いてご理解を頂いたんですけれども、捧げるということはね、心を奉るということです。木遍に奉るという字が書いてあるでしょう。
心を奉る。そこでなら自分心を奉るんですから、汚いものにあったり汚れたりしたものであってはいけないところに、ね、お詫びをさせて貰い、清めさして貰い、そしてそれを奉らせて貰う。「此方が祈るところは天地金乃神と一心なり」私共の例えば願いが、ね、金光大神が願って下さるところ、もう天地と一体、天地としての神様。私共のいわば願いというか私共の心がね、天地の親神様に捧げられた時にそれはもう言うならばほんとにそれは一滴の水にも例えたようなものかも知れません。
天地と言やあもうほんとに限りが無い程しの広範囲のもの、広い深いものその中にです、一滴の水の様なものであろうけれどもそれが一つになって入って行く。私共の所謂捧げた心というものが、ね、神様とおんなじ形になって行く訳です。神様が水の心であるならば私共も水の心になってそこにその一滴でもそこに入って行く事はどういう事になるかというと、もう天地と同じと言う事になる、私共の心が。ね、
それはもう細やかな、細やかな細やかな事に違いありません、私共の捧げる心というものは。ね、けれどもそこに天地と一つになる一心に一つの心になれると言う所にです、ね、所謂天地の間違いなさ、天地の働きがです私共の上に現れて来、頂けて来る事になるのです。そこの所がね、私は分からせて頂いたらもうほんとに「一心の真を捧げる」捧げると言う事は自分の心を捧げる。
そこで汚い心やら浅ましい心やらではいけない所に純真無垢。ね、ところが実際は汚い心ですけれどもそこの所を改まりもします、お詫びも致します。ね、依って清まったものとしてです、神様にそれをうち向ける時に私共のそれは一滴の大海に一滴の水をこぼした様なものなの、けれどももう私のこぼしたその一滴の水はもう大海の水なのです。この辺が素晴らしいでしょう。ね、成程金光様の御信心をまともに精進させて頂いたらおかげが受けられる筈だということが分かります。
もうこの度の幹三郎の病気そして入院そして昨日が手術。二時間半位は時間が掛るだろうと言われておりました手術が三時間半かかっております。一時間皆さんも前から申しておりますから聞いて居られます様にその十三日会の日でしたかねえ、小野先生が見舞いに行かれてあちらのお医者さんに逢われて、この病人が助かったらもう奇跡だと、ね、だから結局は先生方の言うなら研究材料になるだけだという意味の事を言われた。
それこそこれくらいになる迄放ったらかしてからそれこそ親父の顔が見たいと先生が言わっしゃった程しにその非常に大変な事として私共に聞いて来た、頂いてきた。けれどもね、何時も神様がもの言うて下さってあるんですものね、私共には。しかもこの様にも間違いの無い一分一厘間違いの無い働きの中に、その事があることを感じますからもうそこには右になろう、そのぎりぎりのもの昨日の朝の御理解でしたねえ。
右になる左になるどちらになった所で神様に御礼を申し上げる他はない、お詫びをするより他にはないと言う所まで私の心が高度なものになって行っている。まあ高度のものというか、そう言う所にいわば安心のいわば焦点というものがそこに置かれる。ね、神様がああ言うて下さるから助かるじゃろうと。それは一番初めから私共が親子三人で御本部参拝をさせて頂いた時に奥城で頂きました事もそうであった。
死相が現れる程しのことであろうと神様が言うて下さった。けれどもね、死相が紫蘇葉というあのお知らせを頂いてね、それでもね、安心だと、紫の、紫蘇の穂が出る様に実が実だろうと言うお知らせを頂いて私共は帰って来た。皆さんに聞いて頂いた通りです。その後から頂いても、そりゃ頂く事は何時もいわば刻々な事。例えば先日でしたか私御神前に出らせて頂いたらね、合掌しているこの手の中に一枚の白紙を挟んでおる様なもの。紙一重のものであると頂いてきた。
けれどもここに一心を立てる、一心を立ててこれだけこれ程しの、沢山の人が毎日毎日百名からの人達のお届けが今あっとりますからね。しかももうほんとにお付き合いとかといった様なものではなくてもう一生懸命のものを、私はここで感じさせて頂いて居る。とりわけ昨日が手術日だというので、一時の御祈念四時の御祈念には皆さん沢山集まっておい出られて一緒に御祈念をして下さるその御祈念の模様、雰囲気というのはそれを見ただけでも感動する程しのことであった。
是はまあおかげを頂いて私の心にはもうほんとに平生心の、所謂もう右になっても左になっても、お礼申し上げれる心というものがありますからね。ですからもう皆さんがここで一生懸命、なら例えば私がまあ言うならですね、そう気張っていなかったかと言う事は、今私が八時九時から毎日休ませて頂きますよね。なら昨日もやっぱり同じ時間に休ませて頂いた。あれが普通だったらですね、。
う気張ってとても今日など眠れどんされんということになってくるでしょうけれども、やっぱりもう平日とひとっつも変わらんおかげを頂いて居るという事です。皆さんのあの真剣な祈り、真剣なあの御祈念の姿に触れさせて頂いて私の心にはですね、どういう事であったかというと、もう昨日ばかりは私はここへ、午後から座らせて頂いてから、皆さんが一生懸命幹三郎の事を拝まれる様に。もう合楽の信奉者の一人一人の事を、ここに十二時から五時ころまで、四時の御祈念。
昨日も五時まででしたでしょうから、ほんとに幹三郎のことよりかもう一人一人の事を一生懸命願わせて頂いた。という程しにです有難い一日でしたよね。しかし信心で頂けていく心というのは素晴らしいことですよね。それがねなら私だってですこの様にも間違いのない一分一厘の働きの中にあると言う事を信じ、真実はそれを実際にその中にある事がです、私をその様にまあ言うならばそういう中にあってからです、さあもうとにかく手術の時間がもう時計ばっかり眺めてから、と言った様な事ではない訳です。
三時間が四時間になろうが、もう平生心とおんなじなんです。そりゃならうち辺りでも子供が側で苦しむのをみとったら、そりゃまた乱れるかも知れません。けれど昨日でも遅うにもうちょっと十時、九時半頃妹があちらから帰って参りまして聞かせて頂いたんですけれども、もうその日に手術のあった両端に居られた方達があまりにもひどい。もうところがもう幹三郎の場合はですね、もう顔色一つ変わらないという程しのことであった。第一痛まない、痛まなかったということだそうです。
ですからもう横の人達があんまり苦しみなさるもんですから、もう幹三郎の事はさておいて、昨日あちらに詰めとった方達がみんなもう周囲の方達を一生懸命祈ったという程しになら一人一人の方の心の中にある意味でのゆとりを持って居られたということなんですよねえ。病院も沢山詰めかけて居って下さった。ここにも詰めかけて下さってあちらから電話の掛かるのをそれこそ待って下さった。
そして手術が終わってこれはもう普通ならあれなんだろうけれども、富永先生のいわゆるお声がかりでございますから、もうそれは丁重を極めたものだったらしいですね。
妹なんかはもう親戚としてもうこげな素晴らしい有難いことはなかったと言って帰って感謝して居りましたがね、もうほんとにそれはそれは言うなら下にも置かない程しにあの大事にして下さって、それはもう病人の事は何処だって同じで大事にされましょうけれども、?周囲の者までそういう事だったと言うて居ります。ね。
一心の真を捧げての例えば信心、まあ言うならば合楽で百名なら百名の方達の中心をなされる方達のそうした真を捧げての一心の願いが出来たと言う事はね。もう是は大変もう勿論幹三郎はこんな幸せな男はなかったと私は思う位ですが、ではなくてその祈って居られるその方達がですたい、自分の一心が天地に通じ、天地の中に一滴の、それは水であっても天地と一心になって居られたと言う事が尊いでしょうが。ね、
「一心の真を捧げる」いわゆる心を捧げて居られたという事。その事を思い続け願い続けたという事。昨日その事が電話でもう矢次早に電話が掛かって、今、手術室に入った。手術室を出た、今、なんとか他の監査室かね監査室に入ったと言うてその電話が次々にあちらから掛かって参ります。一番最後の電話の時に無事に切開が手術が済んで、眼開けたところが先生方がもうとにかくあのう病気が何という病気か分からないと言う事であった。ね、もうそれこそ肉腫癌に決めきっちゃった。
ところが肉腫癌ではないという事が分かった。肉腫癌ほどしにいわば悪質のものではないということだけが分かった。これからどげんなるか分からんけれども、悪質のものではないと言う事の電話があった時に。丁度泰子が掛かって居ってからその事を聞いとったら。あすこで電話を待構えて居る人達が手を取り合って涙を流してから喜んだ。一心の心を捧げてあるからそうなんです。ね、
これからだってまだそりゃその油断も隙も出来た事じゃありませんけれども、これ程しにの間違いの無い働きの中におかげを頂いて居る。昨日の手術にだってそうでしたね。もうあれが十五日だったらここはもう青年大会でそれこそてんやわんやであった。なら昨日でもずいぶんの教会の御用としては沢山あった。第一南久留米教会の大祭で若先生はその教会の大祭に行った。
光昭は親教会にお届けに出て〇少の会合が櫛原教会でありましたから、あちらの方へ終日行っとりました。教会行事はもう一分一厘のいわば間違いの無くどんどん進められて行く。昨日は大分支部の共励会でしたから病院から帰られた方達がみんなあちらの方へ。日田の方へ。今日はもうこんな日だから、今日の共励会は明日に延ばして下さいとか、今度は取りやめにして下さいなんとかなんかはなか。
もうその言うならば一心だけの働きの中にですね、ある。さては昨日一日のことではありませんけれども、この様な神様の働きと言うものがです、いわば天地の運行とでも申しましょうか、それとおんなじ様に合楽のお広前に天地の運行とおんなじ例えば働きがあって居ったということ。ほんとにその神様のね、そういう一分一厘の間違いの無い働きを、そこに見たり感じたり出来るということはです、なら私共が、如何に教えに本気で取り組ませて頂いてですたい、ね、
もの言うて下さるその神様のその事に対してです、それを曲がりなりにもそれを実行させて頂いて、天地の道理に合うた生き方をさせて頂いて居るからこそです、そこに一分一厘の間違いの無い働きを、毎日見たり感じたりする事が出来るから、そこに雨になろうが、嵐になろうがそういう働きの中にあると言うので、心にゆとりが出来る。安心が生まれて来る。昨日の皆さんが集まって下さって一時の御祈念をさせて頂いた。
時に御祈念にかかる前に神様から私頂いたことが、上野愛子先生がお勝手の方で丁度看護婦さんが付けられる様な白衣を着てから一生懸命ここで行ったり来たりしておるところを頂いた。で、御祈念が終わって皆さんに聞いて頂いたことですが、もう大丈夫ですよ、もう天地の親神様がね、もう手術にかかるの前の時間ですから準備をして居られる。天地の親神様、上野愛子というのは最高の愛という意味で上野愛子先生を私頂く時には天地の親神様のそれを頂く時にお知らせ頂くんです。
上野愛子先生がしかも白衣を付けて一生懸命手術の準備をして居られる。そりゃもう用意はおさおさ怠らない神様のなさることじゃから一分一厘間違いの無い手術が行われるだろうと言うて皆さんにも聞いて頂きましたことでした。ね、それからまあ手術に入りそれから手術丁度中でございましたでしょう、末永さんがここへ出て参りましてから、ね、幹三郎さんの命を助けて下さいと言うてもう絶叫するようにしてここでお届けをされました。もう一生懸命のものだった。
けども神様それに対しては何でも無かったけれども、それを暫くして又二度繰り返した時ですね、誠という字を頂いた。言遍に成るという字、もうそれこそ自分のこれが全財産であろうとまあ思われるいわゆる一心の真をここへ捧げてのです、ね、「どうぞ、親先生幹三郎君の命を助けて下さい」とま何かもう食いつく様なあのお届けでした。その二度目を繰り返した時にですね、頂くことが誠、次の瞬間間髪を入れずに御理解頂いたのがね、「貴方の言う事が成ります」ということであった。
貴方が今願って居ることが成就するということである。言遍に成ると書いてある。それが御理解でした。ね、一心の誠を捧げてのその願いとかと申します、ほんとに神様間髪を打てば響く程しのおかげを下さる。という様なおかげの中にです、ま、幹三郎の手術は昨日この様にして終わらせて頂いて、おかげで妹がこちらにに帰って参ります時には意識も大分出ましてね、こちらが言うことだけはよく分かるらしい。
丁度みんなが外して富永さんの奥さんが用をして居られる時にこうこうやって、手が動かん、手でこうやって招くそうです。それで富永さんが行かれたらその手を握ってから手に「あせ」と書いたそうです。「ああ汗が出よるとね」と言うてからそうっと冷汗のようなのが出よるそうです。拭いたという程しにまあその看護して居る人と交流する意志を交流することが出来る程しにおかげを頂いて居るということです。ね、
先生が「痛かったか」としたらやっぱ横にかぶりを振って痛くなかったというあれをしたということでした。そういういわば神乍らなほんとに天地の親神様のいわば神様の御手術を受けたとしか感じられない程しのおかげを頂いて居りますということがね、只わが心に神が御座るから一心を立てればおかげになるのじゃというだけではなくてですね、もうその一つの一石というものがこう水の中に投げ込まれたら。
それが一つの波紋となって合楽中のいわば、いわば今月の信心の焦点であるところの「一心の真を捧げての願い」になっていって、ね、幹三郎のおかげは言うに及ばず銘々の上にも自分の捧げた一滴が。大海の水の中に入ってもう自分のその一滴は大海の水と同じというところまで高度なものになっていっておると言う事が私は尊いと思う。ですからこの例えばです、ね、体験というものが今後の皆さんの上にもです。
その力はもう皆さんのものなんです。ねえ生きた天地を対象にして居る。そこにです、生きた働きが一分一厘間違いの無い働きになって現れて来る程しのですねえ、日常の中に生活させて頂くのが金光様の御信心、信奉者の私は生き方でなからなきゃならん、そこを願いとしてのおかげになって来なければならんと言う事を思います。御理解第五節の中からね、幹三郎の昨日の一日の容体を報告かたがたですね御理解として頂いて頂きました。 どうぞ。